噛みしめる12月

死への願望は、生への願いでもある。今日の礼拝でとても心にとまったことです。死にたいというのは、あるべき生き方ができていないことへの苦しみ。なるほど。あるべき生き方があると奥底で感じている。ああ、光が必要なんだ。そしてそれは上からじゃだめなんだよね。降りてきて隣に立ってくれて初めて見えるのかもしれない。それがクリスマス。
 今日の礼拝では途中に劇がありました。鳥を助けたいと願いながら鳥に何も伝えられないなかで鳥が死んでしまう・・・「鳥になれたら」と彼は願うのです。そしてそれがキリストの心だと気づく・・・ああイエス様は私をほっておくことができなかったんだ。その愛を噛みしめる12月です。
 P.s.ときどき私は、「ああ」と言います。書きます。歌います。歌詞にも出てきます。この間ある賛美で、サビの始まりが「ああ」で始まるものがありまして、歌っていたら「前に歌った時には恥ずかしくてああって歌わなかったのよ」とご指摘?をいただきました。なるほど・・・恥ずかしいか・・・ちょっと不思議な感じ。私はいつも違和感なかったなあ。

Hiromi Oowada

大和田広美オフィシャルホームページ

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