感謝なピンチ
感謝なことなのに、それがいっぱい起こるとピンチになってしまう・・・私の小ささ。
今日はYWAMという宣教チームとの交流会を予定してました。教会には場所がなかったので公?の施設の一部屋を予約。送迎のお手伝いもお願いして、やっと目処がついて、いよいよとうじつ。と思っていたら、今朝、ありがたい申し出が飛び込んできました。「中高生が自由に参加できるよに」って献金があったというのです。実は教会では午後映画の上映をすることになってました。そこに普通はいくらかの献金をするんですが中高生にはぜひみて欲しいとのことでその分を支払ってくださった方がいたと言うのです。しかし、時間が、そして場所が・・・と、ありがたいことのはずなのにどうしていいか私はすっかりわからなくなってしまいました。こういう時大切なのはその出来事に対処するのではなく、何を中心に考えるかなんだよね、と思いめぐらしながらしばし途方にくれておりました。二つのありがたいことの狭間でもがくもがく。最終的な判断は、やはり年長者の私ですよね?そして、その判断が、「なるほど」って納得してもらえるものじゃないとチームワークが崩れる。チームワークなしに子供達の祝福は取り次げない。子供達にとって何がいいのか。彼らが成長するために何をするのか。考えている中で、やはり、どちらも取ろうと思いました。二つとも神様が彼らに提供したいと望んで用意してくださったこと。今思えば直前に提案されなければ最初から「二つとも」とは私は考えなかっただろう。でも神様は「二つとも」って思ってたのかな、と感じた。最終的に子供達がそれぞれどう選ぶかはわからない。でも提供したいと神様が願われた。それで、最終的には両方できるように、いろいろ調整しました。ふー。とってもいい経験になりました。わたしにとって。
別の話
困って相談するとき、人はいろんな意見を言ってくれる。相談しなくても、気になることがあったり、いいこと思いついた時も。「それいい!すてき!」とか思えることもあるんだけど、「いいとは思うけど、それだれがやるの?責任持ってくれるの?」みたいに思うことが、私は結構ある。こうやって書いてたら、私もそういうーー私から「無責任」て言われそうな勝手なこと言ってたなあ。そうなんだけどね。情けない私は思ってしまう。君の知らないところで何年もその「地味な」なにかをやってたんだよ!と言いたくなる。そういうのどうでもいいのにね。変わりたいなあ。そういうことから解放されて、1番たいせつなことのために、どうにでも変化できる芯の強さ持ちたいです。
0コメント