クリスマスの朝に徒然
神様の前には全てを曝け出していかないと始まらないんだなあと思う。クリスマスの朝に。
昨日は私の洗礼記念日でした。あれから、、、年齢をあまり明かしたくない故にいろいろと悩みますが、、、すでに31年が経ちました。ここまで毎日来られたのは、間違いなく神様の憐れみです。すべてをご存知の方はもちろん全てをご存知。私がいかに神の子供としてだめだったか。誠実さにおいて、従順さにおいて、情熱において、素直さにおいて、謙遜さにおいて、ただ御免なさいというばかりです。ただ神様の憐れみと愛が
尽きないゆえに、なお、神の子供として生きることができる。ああ、クリスマスのこの朝に、、、もっと喜びと力に溢れて賛美したいと思う、、、けれども、、、という心の状況ですが、、、それでもなお憐れみに縋って、、、というか憐れみのベッドの上で、運んでくださいと、連れて行ってくださいと、祈っています。黙示録22章を「聴くドラマ聖書」に読んでもらいながら、「渇くものは来なさい」という言葉に、、、ああ
行きますとだけ告白して、いのちの水を求めようと思いました。
過去に光が当てられるんだって。そして、傷から自由にされるんだって。いろいろと疼いている傷があるんだろうなあ。若い女の子たちには、みんな、結婚してほしい。私が得られなかったその祝福を受けて神の家族に家族で支えてほしいと願う。この時代にお互いに責任を持ち合う関係が必要だと思うから。眩しいほどに神様を愛して仕えている若者たちが家庭を持って家族で主を愛するものになっていってほしい。
祈りたいことはたくさんある。というか、祈る中から生まれるものを受け取って立ち上がる、、、そのシンプルなことに取り組めない日々から新しくされたいと、、、渇く私は主のもとに行くんだ。
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